昭和48年08月18日 月次祭



 今日は久し振りで、前講を秋永先生が承っておりましたが。お話しを頂いております時に、頂きました事が、あの沢山の葡萄を御心眼に頂きました。だからそう言う様な所を、今日は聞いて頂こうと思うです。前講をお聞きにならなかった方は、あのご承知じゃないでしょうけれども、まぁ合楽の信心は、おかげを受けると言う事よりも、お徳を受けると言う事の教導を徹底して受けておる。
 どこの教会どこに参って、どこの共励場に行っても、只々合楽の信心が有難い、素晴らしいと言う事に尽きるというお話を致しております。今日は宮の陣の教会で、松影会と言うのがあります。十何箇所の教会の総代さん、幹部の方が集まる会です。そこへ行っての、自分が感じられたこと、また自分が話されたことなどを話されました。それを例えばあの、葡萄のお知らせを頂いたと言う事は、例えば成程葡萄は美味しい。
 そのまま頂けば美味しいけれども、ね。それをつぼの中に入れ水を汲む、そしてそれを腐敗状態にしてそれから、葡萄酒というアルコール分を作ると、ね。だから葡萄で食べてしまえばそれまで、ただ美味しかったというだけ。おかげというのはそんなもんだ。食べてしもうたら、もう有難いと言いよるけれども忘れる。ね。けれどもそれをです、ね。信心で頂く所謂、今朝の御理解ではないですけれども、あの世にも持っていけ、そして子孫にも残るというもの。ね。そのそれが神徳だと。
 そのあの世にも持っていけ、この世にも残るというものを、合楽ではもう徹底説いておると言う事でございます。教祖様の御教えの全てが、しかも私が二十数年間説いてきたことがです。もう全部それなんです。氏子信心しておかげを受けてくれよと、ね。先ずそれは、始めは誰だって、葡萄のおかげが頂きたいと言うて、はぁぶどうは美味しい、信心ちゃ有難いというようなところからでしょうけれども。
 それはどこまでも、入口であって、ね。それから御教えを受ける事になり、真の信心を分からせて頂こうと、お互いが意欲する所からです。その葡萄をただ美味しいだけではない、ね。それこそ飲んだら酔うか。飲むほどに酔うほどに、それこそもう色んな憂さも忘れてしまうほどしのおかげの頂けれる。おかげに酔うてのいわば日々が送らせて頂けれるという様な信心。それでなからなければあの世には持っていかれない。この世には残して置けられない。
 今日は私は熊谷さんのお宅の、お婆さまの今日はお立ち日でした。大阪からご長男の嫁さん達がまだ居りますし、または最近縁につかれた娘さん達も呼ばれて、だからこの人達が居る間にと言うて、今日が丁度お立ち日でございましたから、あの御霊様にご挨拶を申し上げてくれと言う事で御座いました。それで四時の御祈念に合わせて、そうさせて頂いたんですけれども。霊神様の前に出らせて頂いて、祝詞座に座ったら座って、天津祝詞を奏上して、御祈念をさせて頂いて是から。
 祖先賛詞を奏上させて頂こうという頃から、胸がどきどきどきどきどきどきしてきたんです。まぁため息つきつき、だから上げさせて頂いたんです。とにかく何か不安な時に、この胸がどきどきしましょうあれなんです。そしたらです神様から頂くとがね、今日のお祭りを受けておる、御霊の状態だと頂きました。不安な状態。例えば祖先賛詞を上げておるがです、ね。この祖先賛詞がスムーズに上がるじゃろうか。途中で忘れはせんじゃろうか。途中で間違いはせんじゃろうかと言った様な不安です。
 是はその何十年間上げてきた事ですからもう私だん上げきるじゃろうか、途中で間違いはせんじゃろうかと、もう間違うたっちゃ構わん。もう無心で上げとるから、場合には二回も三回も繰り返す様な事もありますけれども。もうそれは只々もう無心で上げておる。それが、今日は無心ではない。無心と言う事はまぁいうならば、我情我欲を離れた姿という事でしょう。私は今日初めてその事を頂きましてです、成程お徳と言うものを、この世にも残して置けれると言う事。
 けれどもね御神徳でなからなければ、あの世には持っていかれないと言う事を、今日は分からせて頂いた。やはり物を沢山もっておる人がある。金を沢山持っておる人がある。それを子供にも孫にも伝えられると言う事は、やはり物の徳金の徳なんです。所がです今朝、熊谷さんがお夢頂いておられるのが、そのことを頂いておる。丁度そのお婆ちゃまのお夢を頂かれてね。もう大変物持ちのよいお方であった。もう絣なんかは、まぁだ反物のまま、それこそ長持ちいっぱい、納してあるというぐらいであった。
 戦時中にもう布がない、もう自分の持ったものは、全部もんぺにしたりなんかしたりして、ほんにお婆ちゃんのつは、一反ものなら良かばってんち言うけれども、決してやられある方じゃなかった。やっぱこの物の徳を持った人は欲とですね、やっぱやらんこすかです。だからその物の徳だけはこうやった。かさんでくる訳です。もうあるときに一遍もうあんたが、一番良かつば一反取らんのち言わっしゃったぎりじゃったげな。そげんそるきん亡くなりなさったけんで、みんな、熊谷さんのもんになっちゃる訳。
 それでまぁここのご信者さん方も、大変そんなのを頂いて、ここにも沢山頂いてます。やはりこういうのは物の徳です。けれどもその物の徳ではね、あの世には持っていかれない、お棺の中に反物入れていくわけにはいかん。ね。ですからもうほとんどの人がです。その物の徳は例えば持っておっても、あの世に持っていけれる何ものもなかった。そこにです日々が不安であるのであります。だから所が有難い。遺族の者が信心をしておる熊谷さんの信心によってです。
 もうはぁ今日も不安ながらも、毎日毎日やはりおかげだけは受けておるという御霊だという御理解でした。ね。皆さんの中にもありましょうもん。毎日やっぱ心配だ不安だ。本当の安心のおかげを頂いていないけれどもです。やはり信心させて頂いておるおかげで、今日も無事でと言う、そういう程度の御霊様だと。お徳を受けるようになるとです。徳を受ければ心配はないと仰る。身に徳を受ければ心配はないという、その神徳を受ける信心を、合楽ではもう、徹頭徹尾説いておると言う事です。
 私もその事に一生懸命になってると言う事です。今日は午後の奉仕の時に、ある方がもうそれこそ、意気消沈して若い人に、もうそれこそ辱められた。悪口雑言とまではいかんけれども、どうしたならばこんな若僧から、こんなに軽く見られんならんだろうかと思うた。情けなかった。けれども信心しておりますから、さぁここが辛抱のしどころだと思うけれど、やはりお取次ぎを頂かなければ、これが治まらない。
 そこで私はその方に申しました。今あなたはね、一人ひそかに信心しとるときじゃろうがて。一人ひそかに信心の味わいを、じっと噛み締めておる時じゃろがと。だからその人を若僧と思わずに、その人を神様と思うてご覧、親先生と思うてご覧。親先生から言われたつなら有難かろうもん。ね。神様から言われたつならば有難しで受けていくだろうもん。あんたが若僧の小僧と思うておるから、切ないのだと。
 折角一人ひそかなそれこそしみじみとして、自分自身の心のなかに有難いなぁ、信心とは有難いなぁと言った様なものを感じるほどしの味わいを味わうておっておる時だけれども、それが途端にやられた訳です。だからもう途端に信心しよらこげなこつまで辛抱せんならんじゃろうかと言う事になってきたです。だからその時点で、おかげとお徳というのは分かれてくるんですね。それは若僧じゃない小僧じゃない、それは神様のお姿だ。その人を通して、神様が私に言うて下さってあるんだと気づかせて頂いたら。
 もうまたしみじみと、それこそ一人ひそかな信心が出来るんじゃないかねと言って、まぁ話した事です。それなんです合楽での生き方は。今日朝の御祈念の後に、毎朝北野の中村喜久栄総代さんが参ってきます。もう本当にあの年でもう、それこそこの頃も自動車から降りてから、そこんにきで転でから、こうこすりくるぶいとる。昨日は誰か自動車に乗せて行くち言うたげなけんで、帰りに乗って行きござったげなら、その人が便所に行きたいち言わっしゃるげなもん。
 それからほんなら、善導寺の駅になっとん行こうち言うちから、善導寺の駅まで便所に行きなさったげな。そんなら私もついでに行こうち言うちから、便所に行ってからさでくりおてちからこう怪我しちゃる。(笑い)ね。そりばってん中村さんが思うたち。本当に孫康代の事を、これだけ一心のねお願いで、お参りさせて頂きよるから、もうこれで修行が出来ておるごと思うとるけれども、まぁだ修行が足らん是では、神様が修行が足らんと言うて修行をさせて下さると思うて、昨日打った所はこう貼ってしちゃる。
 胸は痛うして応えんばってん、やはりこうしてお参りをさせて頂きましたとこう言う。ね。もうこれだけ修行しよるけん、もうやんがて八十近い婆さんがです、ね。そら孫の事の一心の願いがあるからではあるけれどもです。ね。北野から久留米に回って、ここまで参ってくると言う事は、容易な事ではない。もう今日だんご無礼しょうかと言う事もあるけれどもです。これじゃいかんとそれこそ、老の身に鞭を打ってお参りをしてきておる。そしてその、倒れたり転んだりをしながらもです。
 矢張りそれを修行と受けて行きよると言うほどしの良い信心をさせて頂く人がです。ちょうど、御大祭の前の日でした。親先生下駄屋さんですからね。盆の十五日十六日は沢山売れるわけなんです。今までは二十日じゃったから良かったけれども、十六日になったから、先生その代わりに十六日の日は、朝お参りしてからそして又夕方からお参りしますけん、お祭りにはお参りせんでんよございまっしょうかち言うちから、言い方しよったけんで、返事せじゃった黙って。
 そるけんで自分が耳の遠かけんで、私も耳の遠かかと思うちから、また言わっしゃるけんで。あんた時々そのね、もうえらい分かったごたるこつば、和尚のごたるこつば言うかと思えば、時々もうちょいと分からんこつ言うのち言いましたら、はぁそれっきりでしたよ。もう日頃、信心を頂いておるち言うこつは有難いですね。あんた時々分からんこつば言うばいち私が言うた。そしたら自分でも、これは分からんこつと言う事は分かってるけれども十六日という、売れる日はやっぱり我情が出た。ね。
 もう親先生そうどころじゃございまっせんち言うちから、涙流して帰らっしゃた。それからあくる朝まぁ初美に言うて、自動車も何時に呼んどかんなんばい、もう来るばいと言った所がです。朝も今までかって売れたこつのないような高級品が、次から次と売れる、その出る前に。あらこらあんた大売出しの半分な、もう売れたたいと言うて、こちらへお参りさせていただいた。そして総代ですから、玉串奉奠させて貰い、そしてお祭りが済んで、まぁ五時ごろ帰った。
 所が五時に店を開けたげなら、また売れる事売れる事ばさらかがねもん。とうとう去年の大売出し以上に売れましたち言われる。私はねこの神様はもう本当に、恐ろしかごとそれこそつっ転げたり、怪我させたりもしなさるごたる感じもするけれども、その反面には、こういう力も下さる、おかげも下さろうという働きをね、今日こそは愈々感じさせて頂いたと言うて、御礼を申しております。私がもし中村さん以外の方だったらですね。また、総代さんでなかったならですね。
 ほんならそげんしなさい、朝参ってまた夕方参るなら、それで良かたいと言うとこでしょう。けれどもやはり、総代としてそう言う事ではいけんと私が思うからです、ね。参れとも、参らなくとも言いませんでした。中村さんあんた時々分からんごつ言うねねち、私が言いましたら。はぁと言うたきりでしたよ。ね。どう言う事とも聞きませんでしたよ。親先生、本当に分からんときには、こうやって教えて頂くと言う事が有難い。
 もう今日は、胸が痛うして応えんとば、こう押さえながら、もうそれこそ涙を流して、その事の感動を、今日はお礼を申しておられます。今日はこれも午後からでしたが、日田の綾部さんがお参りになって、もうそれこそこれももう本当にあの、おかげを頂いた話なんです。野口さんところの告別式を終えられて、その晩が前夜祭です。帰ろうとしよりましたら、秋永先生があんた残っとかじゃこてち言われる。
 いや今日は君子どんが、娘達の夫婦が来とるから、夕食も用意してやらんならんから、あの今夜はご無礼するち、ね。支部長さんが、今日の前夜祭に残らんち言うこつがあるもんかい。どうぞ先生お願いしますと言うて、まぁそう言われながら帰ったと言うんです。ならそれで帰って、自分のまぁ娘夫婦に、まぁ美味しいものを作って食べさせたでしょう。ところが何時まで待っとっても、あちらから着いたち言う電話がかかってこん。ね。十一時ごろ電話が架かってきた。
 そしたらもうお母さん、今日はおかげ頂いたち言うのが一番口じゃった。もう途中が土砂降りでですね、その山が土砂崩れがあっとった。もう本当にもう土砂の下にどんなるなら、大変なことじゃったけれども、それでもやはり道をその、断崖のごたる所から落ちはせんじゃろうかと思うて、自動車のなかから首をこう出して、そのようやく大変な時間をかけて行った。
 もうそん時にですねはぁ本当に、こうする事が本当だという事をね。しとかなければいけんという事を感じましたち。あくる日秋永先生にお会いしましたら、夕べあんたが帰ったけん、私は十一時ごろ神様に、一生懸命あのことを御詫びしたり、お願いしたりしたよち言うて、秋永先生から言われた。ちょうどその十一時にそこの土砂崩れのとこば通ることこじゃったそうです。ね。
 あれほど信心も言うならば、分かった様にしておるけれども。しかも支部長としての御用もあるのにです、ね。娘達が明日帰ると言うさぁそれを、今まで何日も居ってから、愈々大祭を控えて帰るちゃ何ち言うこつのと。明日の事は私が神様にお願いするけん、明日の御大祭を頂いて、それから帰ったっちゃ遅うはなかばいと、どうして言えなかっただろうかと言っております。是はね皆さん今あの中村さんの話、それから今の綾部さんの話、ね。これは私でもです、ここでお取次ぎをされたらね。
 ほんなら中村さんのように、おごられつけてる人はです。私がおごりもしますけれども、すぐ分かる人は。けれども分からんで腹立てたり、心汚したりする人があるから、それはあら日頃の信心は、どこさんやってるのと言う様な事を、お取次ぎをするけれども、まぁあの黙ってお取次ぎをさせて頂く様な場合は、幾らもあると言う事です。昨日の合楽会に、玉川さんのお話じゃございませんでしたけれどもね。もうどんな場合であっても、母ならどうするだろうかと思うたら、答えがすぐ出てきますち。
 夕べの合楽会に出てきてあった、ね。今夜もいまだ親戚全部おりますから、親戚全部お祭りにお参りさせて頂いた。朝の御祈念には勿論、お父さんもお母さんも一緒にお参りをしてくる。ね。亡くなられてからこの方の、あちらのお父さんの信心と言うか、その今までは、家内に寄りかかっとった信心が、自分にどんとこう来た感じ、ですから有難さが一遍に込み上げてきた。家内を亡くして悲しい事は勿論だけれど、ね。
 その悲しい事も悲しいけれども、有難いのもまた有難い。もう親先生おかげを頂いて有難い。もう毎朝もうそれこそ、あんなあの有難い有難うございますは、今までかって聞いたことがないほどしの有り難うございますをお届けしながら、朝の御祈念から帰られますね。私はもう野口つぁんのことは言うまい話すまい。何か言い訳めいてから、話すまいと思うけれども。何か知らんけれども、何かこう話しよると。
 もう野口つぁんの話しになる。ここに今日は野口つぁんの話しをするまいと思いよるけれども、ここにこうやって、お話しなければおられないほどしのおかげを受けておると言う事なんですね。今朝の御理解に、御神徳を受けると言う事はです、ね。あの世にも持っていけ、この世にも残しておけるというほどしのおかげを頂かし。しかもそれは信心すれば、誰でも受ける事が出来る、尽きると言う事がないと教えておられます。ね。所が誰でもは、受けてはおらんのですから。
 今朝私は皆さんに申しました。そんならば、ね。野口つぁんのような信心例えば。ね、あぁいう信心から、あの世にも持っていければ、この世にも残しておけるというおかげ。今日御霊様の、熊谷さんとこのお話の中には、ね。先代のお婆さんが、ね。ものの徳だけは残しておかれたけれども、自分が持って行くものがなかったから、毎日が不安である。不安だからと言うて、困った事にはなっていない。それは後の者の信心によって、結構なおかげを頂いておると言う事。
 けれども安心とか、喜びと言うのじゃないと言う事。人間の世界でも、そういうのが多いのじゃなかろうかと思うです。ね。所がほんなら、野口つぁんの場合はそうではなくてです、ね。あの世にも持って行っておるという印を、私は昨日聞かせて頂いて、うわぁもう本当に御霊様が、もうそげな働きしなさるじゃろうかと思うくらいじゃった。昨日の朝、永瀬さんがお届けされますのに、お夢の中に野口つぁんが現れなさった。あらあんた、昨日告別式じゃった、亡くなっとんなさったでしょうがち。
 したら私はものが言われんて。ものが言われんけれども、ああた達と一緒に写った写真があって、あの写真を下さいと言うて見えた。だからその写真を永瀬さん、持って見えてね。御本部で一緒に写った写真なんですね。その事を神様にお届けさせて貰いよったら写真とは、真を写すと書いてある。あ、こんがらがった問題が起こっておった。だからそのことの真実を明かすためにと言う御理解じゃった。もうその後にもうそれこそ、すく櫛梳き櫛ですいたように問題が解決した。ね。
 もう私はもう本当にあのお徳をもっていっとると言う事は、その一事からでも分かるじゃないかと、今朝から聞いて頂いた訳です。ほんなら、そのお徳と言うのが残ると言う事はです。もとならお父さんの信心にしろ、富永さんの信心から見てもです。もうその日から、やはり、日参り、夜参りを、やっぱりなさっておられると言う事。しかもそれはもう、本当に母の信心には、恐れ入ってしまいます。母の信心には恐れ入ってしまいますという事。いつももう朝の四時になったら起こされる。ね。
 だからどうある事が、母が一番喜んでくれるかという答えがすぐ出るというほどしのものを、娘に又は連れ合いのご主人に、それを残しておるという事は、そのままお徳を残しておるということになりましょう。ね。どんなに御霊がお徳を持って行っておっても、どんなにお徳を表す事が出来てあってもです。ね。それをほんなら、こちらが受けようという気がなかったら、これはほんなら、神様の御神徳ですらが、受ける事も現す事も出来ないでしょうが。ね。
 先日の堤清さんの五十日祭の時もそうでした。これは妹さんの聖子さんが頂いた。清さんが御本部参拝をして帰ってきてる。ね。そしてもうきつかったと言うておる。御本部参拝という事は、それは教師の資格を貰うたと言うお知らせを頂いておる。だから家族の者がすがってくるなら、あのおかげも取り次がれるほどしのおかげを頂いておるんだけれども。家族の者がその気になってくれんから、疲れておる。ね。
 惜しいでしょうが。折角の大変ないうなら、もう又とあってはならない様な、犠牲を払うてからまでも、おかげを頂いておる。先ほど今日秋永先生がお話しておりました中にもです。ね。旗崎の教会のご信者さんが、朝参りをしよって途中で殺されなさった。ね。それはもう、大変な事だった、ね。ところがですそこのご主人がお夢を頂かれた。それは亡くなられた奥さんが、家中をハタキをかけて大掃除をしよるところを頂いた。それで旗崎の先生にお伺いさせて頂いたら、ね。
 ほらまぁだあんた嫁さんでん貰うちゃ出来んばい。まぁだ前の嫁さんのその念が、家の中に残っておる。嫁御さんが悋気さっしゃるなら、どんこんされんけんで、嫁さんな貰わんが良かばいち言われた。ところがその都合良か所から、後からその貰えと言われておるけんほんなら、当時の椛目の先生にお尋ねしてくると言うて、椛目に来た。私はその旗崎の先生の聞いておられる事を、なんか全然聞かなかった。こうこうだかろと言う事を。夢の話だけを聞いた。
 そしたらねそういう大変な、人から殺されるというほどしの事であったけれどもです。その事によって家の中のめぐりを取り払うてしもうたと言う印を見せておるのだけれども分からない。ね。だからそれは、本当に神様のお許しを頂いて、前の奥様も喜びなさることだから、おかげを頂けと言うて、もうそれから二十年ぶり、今日初めてその話を聞いた。もう二十年になりますから、子供が大学校にその大学生が、旗崎教会ではない、高宮教会だそうですけれども、それこそ珍しい青年会で学生会ですかで。
 あの活躍をするほどしの信心を頂いておるという話を、今晩聞かせて頂いた。二十何年前の事を、私も思い出した。ほんにあんなこつじゃったなぁと思うて、ね。だからそういう時にです。本当にめぐりのお取り払い、もう持って行けれるだけは持って行って下さってあるのですから、後を生かさなかったら惜しいでしょう。ね。後から御霊様にお礼が言えれる。だから、それをです例えばおかげにするだけでは出来ん。
 お徳にしていかなければいけない、ね。そのそれをです一つの問題を、ほんなら葡萄なら葡萄のまま頂いたんでは、それまでだから、ただ美味しかったというだけだから。それを葡萄酒にする所の、こつあいと言うものを、これからの信心によって、頂いていかねばならない。そこに、ね。飲むほどに酔うほどにと言う様にです。ね。心の憂さも、肉体の疲れもです。払われるほどしの有難き、勿体なき恐れ多きのみきを頂く事が出来る。そういうお徳を受ける事が出来る道をです。
 合楽では私は皆さんに、何時も聞いて頂いておるんだ。また天地の親神様の願いは、ここにあるんだと思うておる。ね。そつのあるはずはない、むらのあるはずはない。神様の深いご真意思し召し。分からん事は沢山ある。堤さんの事だって、野口つぁんの事だって、ね。いうならば分からん事はまだ、沢山あるけれども、それはご神慮の深さであるという風にいただかにゃいかん。そんなに天地の親神様のなさる事がです。朝のただ人間の考えで分かるごたるもんじゃない。ね。
 私はこのへんの所を、分からせてお互いが頂いてです、ね。例えば日々例えば、どのような場合であってもです。なら今日私がお取次ぎさせて頂いた。あんな若僧からどうしてあんなに軽く見られなければならんだろうか。どうしてあんな事を言われなければならんだろうかと思うたら、それこそ信心しよるけれども、腹立ててどうか言おうごとある。けれども、そこだけは辛抱したというのであってはです。それはおかげを頂くというだけであります。ね。けれどもあの人こそ神様の化身だ。
 あの人を通して神様が教えて下さってあるんだという頂き方をさせて頂いておればです。それこそ一人ひそかな、自分でそれこそほくそ笑むごたる、しみじみとした有難いものを感ずることが出来る。相手の事をまた祈り願うことすらも出来る、ね。そういう信心が、徳を受けていく道なのです。ね。葡萄だけで終わっちゃ済まん、ね。それが本当に葡萄酒になるようなおかげ。おかげだけでは済まん、ね。お徳に成程しのおかげ。しかもです、あの世にも持っていけ、子孫にも残るほどしの御神徳を、ね。
 信心をすりゃ誰でも受けることが出来ると仰るのですから。その信心とはほんなら、どういう信心かと。参りよります拝みよります、まぁだ金光様と縁は切れておりまっせんち言うごたる信心じゃ、なぁにもならんと、ね。本気でその事をです。私はね例えば富永さんの言を借るならばですね。こんな場合お母さんならどうするだろうかと言うときに、答えが出てくる。その答えを、本気で実行すると言う所からですね。所謂野口つぁんが頂いて行っておられると確信出来れる。
 例えばほんのここ一両日の出来事なんですけれどもね。御霊の世界でも、そういう働きが自分の例えば、野口の家の事、信心のことを穢されておるといった様な事がる。それを正さなければならないという働きが、もう出来ておる。かというとほんなら、子供達にこのようにして、信心が残っておると言う事は、お徳が残っておると言わなければおられんじゃないかと、お互いが思うておるだけである。ね。
 信心をすればそれこそ、尽きることなく頂けれる。ただ難儀の事を、ただ通り抜けさせて頂いて、本当に死ぬごたる思いがです。段々諦めてきて薄うなってくるというだけでは詰まりません。それではおかげの世界だけしか知ることは出来ん。ね。御神徳の世界、御神徳を受けて行けれる信心を、合楽ではこのようにして、日々頂いておるのでございますからね。一つ本気で御神徳を頂かせて頂く為の信心。どうぞ今日私が昼、お取次ぎさせて貰った。それこそ一人ひそかに信心する。
 どの様な事があってもです。ね。それを本当に神様のお働きであるとし、それを神の姿と見、神の声と聞いて有難いなぁと言う、一人ひそかな一人でほくそ笑めれるほどしの、ね。信心をさせて頂いたら、信心がまた楽しい事になる。どうぞ一つおかげを頂まして、まぁ、今度の野口つぁんのお国替えと言う事は、もう沢山の人がもう本当に、もう本当にもう、色々と教えられました。昨日の合楽会なんかはもう、私はひょっとすると、もう部落には、信心の薄い方達も、何人も居られますから。
 もう見えんのじゃなかろうかと思うた。所が昨日はもう、全員集まってました。そしてもう終始十一時まで、野口つぁんを称えるというか、野口つぁんのいわば偲んでもう素晴らしい信心の共励が出来ました。ね。これとてもやはり、野口つぁんが残しておられる信心だったという事が言えるのじゃないでしょうか。あの世にも持っていけ、この世にも残して置けれる信心を目指してお互い、信心の稽古をさせて貰わんならんですね。
   どうぞ。